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2009年7月

2009.07.17

天草の鈴木神社

 四年ほど前(H17.10.07)に天草に旅行したときに立ち寄った「鈴木神社」の写真がありましたので記事に載せたいと思います。

 鈴木神社は、天草・島原の乱後の天草の復興に尽力した天草初代代官・鈴木重成公をお祀りしてあります。
また、重成公の実兄で仁王禅で有名な鈴木重三公(鈴木正三和尚)、正三の子で重成公の養子であった天草第二代代官の鈴木重辰公もお祀りしてあります。

 天草というと”キリシタンの島”と思われがちですが、キリシタンは天草・島原の乱でほぼ壊滅して残っておらず、江戸期を通じて禅宗の影響が強かったと聞いております。

正面の鳥居です。

拝殿正面です。

由緒書の看板にはこのように書かれていました。


  鈴木神社由緒

  鈴木神社は切支丹の乱後の天草を復興し済世救民のために身命を賭し
 給うた鈴木三郎九郎重成公 鈴木九大夫重三公 鈴木伊兵衛重辰公
 を御祭神とする神社である。 世に「すずきさま」の名で親しまれ三神の偉徳は
 「鈴木精神」と仰がれる。
  寛永十四年 唐津藩主寺沢志摩守支配下の天草では万余の民が
 その苛政に抗して蜂起し島原の民と呼応して遂には原城の露と消えた。
  大乱の後天領となった天草の初代代官鈴木重成公は寛永十八年より
 承応二年に至る十二年間 三河武士の果断と卓越した識見 深い慈愛
 を傾注して、亡所と化した天草の再建に尽瘁せられたのであった。 即ち一揆犠
 牲者の慰霊 殖産 移民誘致 行政組織の再編 海浜防備 農漁民の
 地位保全 衛生の普及 社寺の創建と復興 雑税の減免等の諸施策が
 それである。 かくて我らが祖先の生活と心は徐々に向上と安定に向かった。 その
 仁政の蔭に 実兄鈴木重三 正三 公の深い思想と助言建作が大いに
 与って力があったことも我々の銘記すべきところである。 しかし天草の
 困窮の源は、土地の生産力の実態を無視した石高の査定(四万二千
 石)であった。 代官はみずから再検地して 幕府に対し天草の石高
 半減を建議 再三の請願も容れられぬと看るや 領民塗炭の苦
 を除かんと赤心を披瀝し、承応二年十月十四日 江戸の自邸に割
 腹して果てられたのである。
  二代代官 鈴木重辰公 またよく先代の仁政を継承し 更にその熱願
 達成のため挺身せられたため 重成公七年祭の万治二年 幕府は遂
 に天草の石高を二万一千石に半減する旨指令を発した。
 島民ひとしく先代の遺徳をしのび、請うて遺髪をこの地(御本殿後方)に埋
 葬し感謝報恩 慰霊顕彰の篤い念を発して鈴木社を建立した。 当社はその後
 島内三千余に及した鈴木社の本社となり今日に至るその間 文政六年「鈴木明神」
 号下附 文化八年鈴木明神伝碑建立 安永七年社殿新築 天明八年重三重辰
 ニ神を合祀 奉納相撲大いに賑わう。明治十七年社殿改築、昭和十七年復興奉賛
 運動昂揚するも大戦により中断、昭和三十四年石高半減三百年記念大祭 昭和五十
 八年重成公没後三百三十年大祭並びに記念事業として拝殿の改築その他を奉
 仕した。 鈴木三神の広大な御神徳と 三神を敬仰する天草島内外の信
 篤き人々の心とが相和し相応して御神威ますます高まり恩徳はいよいよ深い。
   身を整え心を清めてお参りましょう。御神徳を讃え感謝の真心でお祈りしましょう。
   神を敬い世のため人のために奉仕する心の輪を家庭と地域社会に広めましょう。

                          鈴木神社社務所

この場所の地図です。


2009.07.16

『立正安国論』奏進750年

 長らく記事を書いておりませんでしたが、今日はタイトルに書いたとおりの記念の日なので、少し記事をアップしようと思い立ちました。

 今を去る750年前の文応元年(1260)7月16日、時代は鎌倉時代、日蓮聖人は前執権の北条時頼に宿屋左衛門入道最信を介して、『立正安国論』を手渡しました。

 『立正安国論』は、当時の打ち続く天変地異・飢饉・疫病の原因を、日蓮聖人が経典の中に求め、「勘え(かんがえ)」た文書です。 「勘える」というのは、為政者の命で事件や天文・気象などの吉凶を陰陽師等が故実や古文書に求め報告することをいいます。 『立正安国論』は日蓮聖人が為政者の命を受けたものではないので、私的な勘文といえます。
 (「勘え」云々は、『立正安国論』の奥書にその記載が見えます。
  「文応元年太歳庚申之を勘ふ。 正嘉に之を始めてより、文応元年に勘へ畢(をわ)んぬ。」

 『立正安国論』は、「旅客来たり嘆きて曰く…」から始まり、旅客と主人との問答形式で話が進んでいきます。
その問答の中でいろいろな経文から引用される形で、最近の天変地異・飢饉・疫病の原因は、日本国中の人々が正しい信仰をしないがために、「善神去って悪鬼来る」がために起こる。」と結論づけられていきます。

 そして最後の方で、主人が
 「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。 然れば即ち三界は皆仏国也。 仏国其れ衰えん哉。 十方は悉く宝土也。 宝土何ぞ壊(やぶ)れん哉。 国に衰微無く、土に破壊(はえ)無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。」
と言われます。

 それに対して旅客も了解し、今までの信仰(「一仏〔阿弥陀仏のみ〕を信じて、諸仏を抛(なげう)ち、〔浄土〕三部経を仰ぎて、諸経を閣(さしお)きし…」)は誤りであったことに気づき、速やかに自分も信仰を改め、他の人の誤りも誡めようと答え、問答が終わります。
※注: [ ] 内は管理人注釈。

 さて、『立正安国論』奏進の翌年、弘長(1261)年5月12日に日蓮聖人は伊豆へ流罪となります。
理由としては、その激しい他宗(特に浄土宗)非難にあったとおもわれます。
しかし、法然上人による、「法華等の諸行等を、”捨・閉・閣・抛”し、念仏のみ行う」信仰が、「善神去って悪鬼来る」原因と考えられるのならば、激しい非難もうなずけます。

 ともあれ、750年の歳月… この国、いや世界に「善神」は帰って来てくれているでしょうかねぇ?think

映像がぼけていますが、
下の写真は『立正安国論』(略本)真蹟影印です。
全36紙のうちの、第1紙(上)、第2紙(下)
(『原文対訳 立正安国論』 北川前肇 編  大東出版社 発行 P121より)

合掌

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